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「輪廻とその終わり」について(自由人の カルマ・ヨガ ノートより)

≪自由人の カルマ・ヨガ ノート≫に興味深い記事がありましたので転載させていただきます。
http://mitsunakoudai.blog.fc2.com/blog-entry-376.html

 「輪廻とその終わり」について

 前回記事で、『覚醒の炎 プンジャジの教え』の本を少し紹介しました。せっかくの内容ですので、その続きを。

 今回は、スピリチュアルなテーマの中でもとりわけディープな、「輪廻の仕組みとその終焉」について。

 こうした話は、「語る人によって色んな表現がされながらも、基本的な図式はだいたい似ている」という感じで、プンジャジの場合もその一つでしょう。
 だから、インパクトのある斬新な切り口というわけではないものの――、でもこうして、マスターたちが語った色んな内容にたびたび触れることによって、私たちの生に対する気づきが深まっていくように思える。




 この世に繰り返し何度も生まれ変わってくる輪廻転生は、私たちの魂には「死」が存在しないことを意味する。そのため、この仕組みを希望的にとらえる見方というのもある。
 ただし、魂そのものは永遠不滅であっても、この世界に肉体をもって生きることは、仏教などでは「苦しみ」とされている。
 その苦しみの生み出す輪廻転生のループから脱して、魂が自由に解き放たれることを、「解脱」と呼んでいる。


 では、輪廻というのは、いったい何ゆえに生じているのか?
 プンジャジは、「満たされなかった欲望」がその原因なのだとして、次のように説いている――。


 誕生と死の果てしない輪廻転生が存在する。それは人の「欲望」によって燃料が注がれている。

 あなたは心の中に「私はこれをするべきだった、あれをするべきではなかった」といった思いをためこんでいる。
 満たされなかった欲望――。それを満たそうとする圧力が、世界という現れを生み出している。これが「サンサーラ(輪廻)」だ。
 こうして私たちは、この生を得て、次の生も得ていく。

 欲望が尽きたとき、サンサーラもまた尽きる。一見終わりがないように見える輪廻転生も、欲望の終焉とともに果てるのだ。


 相当に深遠な話だけど、一方で彼は、こんな身近で分かりやすい比喩も使って説明している。


 あなたが「新車を欲しい」と思っていた場合、それ手に入れたとたんに幸せを感じる。なぜなら、新車を得たいという欲望がなくなったからだ。
 あなたを幸せにさせたのは「欲望の不在」であって、所有物の獲得ではないのだ。

 もはや欲望がないとき、あなたは幸せだ。これが「解脱」なのだ。解脱は、瞑想や聖典を読むことでは起こらない。欲望がある限り、サンサーラは存在する。そのことを、誰でも日々の世界の中に見ることができる。


 そして、さまざまな教義やマスターたちが説いているように――、輪廻もこの世界も、すべての正体は「人の想像が生み出した幻」なのだとプンジャジは語る。
 そして、延々と再生し続けている幻を終わらせなくてはならないと強調する。


 あなたが見て、感じ、考え、味わうあらゆることは、「想像がそれ自身と戯れている」だけなのだ。
 すべてのサンサーラ――何十億年という過去と未来の創造、心の果てしない想像――は、ただ一瞬のうちに起こっている。すべてのサンサーラは、一瞬の創造が拡張されたものでしかない。そしてそれが、私たちが何百万年ものあいだ体験してきたことを、実在だと信じさせている。

 世界という夢を見させ、その中で生き、解脱に向かって努力させてきたこの創造に、あなたは終止符を打たなければならない。永遠に終わらなければならない。




 前述されているとおり、輪廻は「欲望」を燃料にしているわけだけど――、では、その燃料供給を止めるための鍵は何だろうか。
 それは「記憶への執着」にあるとプンジャジは言う。


 心に印象を残したときだけ、欲望は問題となる。
 欲望が起こり、快楽が続き、そして記憶が続く。問題はそのようにして起こっていく。快楽自体に問題はない。ただその後で、それを「回想」することが問題をもたらすのだ。
 快楽が終わっても記憶は残る。その記憶が、同じ対象物を求めようとする欲望を起こさせるのだ。そのようにして、それは無限に続いていく。

 「記憶への執着」が、次の体験へとあなたを引きずり込んでいるのだ。
 解脱した人にも記憶はある。だが、記憶に蓄積された出来事に対する執着がない。記憶が表層に現れても、その後を追いかけたりしないため、欲望が生み出されないわけだ。
 記憶によって新しいカルマを生み出すような方向へと、解脱者が連れて行かれることはない。そのためカルマは作り出されず、再誕生もあり得ない。

 何であれ為すべきことが起こったら、ただそれを行いなさい。そして忘れてしまいなさい。それについて考え続けてはならない。
 頭にこびりついた想念が、あなたを果てしない輪廻転生に連れ戻すのだ。欲望がまったくないとき自由がある。無欲がニールバーナ(涅槃)なのだ。


 そして、「記憶への執着」を取り払うために必要なプロセスが――、執着の起きる地盤でもある「自分が行為者であるという感覚」を超えていくことだと説いている。


 あなたはこの世界で、あたかも「自分がものごとをしている」と考えている。だが真実は、「気づき」がすべての活動を維持しているのだ。すべては気づきの中で起こり、気づきの中で維持されている。あなたは何もしていない。

 すべての活動を行うのが、あなた自身でなく気づきであることを知れば――、記憶に足跡が残らず、カルマを蓄積することもなくなる。次の誕生を生み出すカルマはもはや存在しなくなり、こうしてサンサーラは終焉するのだ。


 あなたが消し去らなければならないのは、行動パターンではなく、それに伴う「行為者という感覚」だ。害となるのは、行為そのものではなくて、「私はこれらの行為をしている」という観念なのだ。
 解脱を得たあとでさえ、行為は続いていく。それが解脱の妨げになることはない。なぜなら、それは身体にプログラムされたものだからだ。あなたは、しなければならない活動でいっぱいの倉庫を持っているようなものだ。それが身体の生き続ける間に果たしていく運命なのだ。

 だが、行為者という観念が消え去ったとき、身体がすることやしないことについての関心はもはやなくなる。解脱を得た瞬間、大いなる「炎」が現れ、行為者という感覚は焼き尽くされるのだ。それとともに、未来に生まれ変わるカルマの倉庫も焼かれ、あなたの輪廻転生を終結させる。


 記憶への執着、行為者としての感覚――
 これらもまた、さまざまな本に繰り返し書かれている内容とだいたい同じかもしれない。そして私たちはそれを読むたびに、「そう簡単に言い切られても、言うは易しなんだけどなぁ…」というふうに感じる。

 でも、「魂を自由に解き放ちたい」という思いを持ち、その取り組みが可能な環境にこうして生きていること自体が、何世にもわたる徳と幸運が積み重なった稀有な結果なのだと、プンジャジは力説している。
 そして最終的に、欲望と想念を終わらせるのは、気づきの「炎」なのだと説く。この「炎」というのは、本のタイトルにも付けられている通り、この人の教えの象徴的ポイントだろう。

 それは実際に、「するも易し」であることも明言されている。
 これについては、また後日に続きの形でまとめてみたいと思います――。




 一点、やや付随的な話題を。

 死とカルマに関連したことだけど、聖者や覚者と呼ばれた人の中には、癌などに冒されて病死しているケースが少なくないですよね…。誰でも少し気がかりに感じることだろう。
 その事実について、プンジャジは次のように言及している。


 ラマナ・マハルシは癌だった。ラーマクリシュナも癌だった。ヨガナンダも癌を患っていた。
 人の身体は、過去の行為の結果を体験し続ける。真我を実現していない人の場合、未完結のカルマは、来世に繰り越される。だが解脱者にその可能性はない。今生で真の自由を獲得した人は、再び生まれ変わることがないからだ。
 それはつまり、この最後の人生で未完の身体的カルマを、すべて結実させなければならないことを意味している。そのために、解脱した人はときおり非常に病んだ身体で最期を迎えることになる。次の生に延期することができないからだ。

 しかし彼らが、そのことを気に掛けることはない。自分というものが、病気で苦痛を体験している身体ではないことを知っているからだ。ただ、身体を通してプラーラブダ(果たされるべき運命)が完結されていくのを、超然と見守るだけだ。
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