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肉体という養成ギブス(自由人の カルマ・ヨガ ノートより)

≪自由人の カルマ・ヨガ ノート≫に興味深い記事がありましたので転載させていただきます。
http://mitsunakoudai.blog.fc2.com/blog-entry-407.html

肉体という養成ギブス

強制ギブス


 ある本に、「魂が人間の肉体をまとうことは、『養成ギブス』を付けるようなものだ」という表現があって、なるほど確かにそうかもなぁ…と思いました。

 一定世代の方には分かるだろうけど、養成ギブスとは、漫画「巨人の星」の主人公・星飛雄馬が少年時代に装着していた、あの見るからにすご味のあるトレーニング器具のことである。

 ふつうに身動きができないほどの強力なバネが腕や肩に張り巡らされ、そのギブスを身に付けた不自由な状態で日常生活を送ることによって、豪速球を投げる筋力が鍛えられるというものだ…。


 私たちのおおもとの魂は、まさしく際限なく自由な存在である。
 行きたいところへ瞬間的に飛んで行けたり、どんな相手ともテレパシーで交流できたり、飢えや苦痛を抱えることもない。

 そして、あらゆる存在がひとつであること、この宇宙が大いなる愛によって創造されていること、そして自らが永遠無限な存在であることを、忘れることなく知って感じている。

 それほど自由で幸せな魂が、制限のきつい「養成ギブス」を身に付けて物質界を生きるわけだから、これはとんでもなく大変なことだ…。




 どうしてそんなことをしているのかと言えば、やはり魂としての進化のためなのだろう。

 皆がバラバラに分離しているようにしか見えない世界の中で、はたして「隣人に愛を与える」ことができるのか?――
 必要なものが足りないとしか思えない状況において、「他者と分かち合う」ことが現に可能なのか?――
 色んなことが思い通りにならず、自分がみじめで恥ずかしくて卑小な者にしか感じられないときに、それでもなお「自分を愛する」ことができるのか?――

 そのような経験を通じて、自らの真の本質に気づいていくことができるのか?――

 これは、永遠無限の存在である魂でさえも(神でさえも)、実際に「体験」したことがないことなのだろう。


 もちろん、答えとなる自らの「在り方」というのは、魂自身は分かっているし、それは「絶対的に不変なもの」である。

 けれど、すべてを忘れた状態になって、その「絶対的に不変なもの」さえも「かなり不確かな選択肢の一つ」にしか見えないような状況で――、 本当にその通りの選択ができるのかどうかは、実際にやってみないことには分からない。

 その「どうなるのか、やってみないと分からない」ことをやってみる――。そこに、魂とって未体験で未知のシフトがあるのだろうと思います。

 そのシフトのために、わざわざ制限された物質世界をつくり出し、こうして「養成ギブス」を身に付けて奮闘中なのでしょう…。




 では、そうした観点から見て――、自らが永遠無限の存在であるという真実に気づいた「覚者」とは、どのような人なのかといえば…
 養成ギブスが何かの拍子に、ポロッと外れちゃった人だともいえる。

 すると腕は思うままに軽やかに動くし、色んな動作が素早く力強く自然にできる。
 それを見て、周りでギブスを付けたまま苦戦している人たちは驚嘆してしまう。「この人物は偉大だ!」「どうすれば自分も外すことができるのか?」といった具合に…


 覚者とは、「本来の私たちは、これほど自由なのですよ」という真実を伝える使命のために、そんな特別な出来事が身に起こった人なのでしょう。

 やがては誰もが、しかるべきタイミングに来たとき、同じように養成ギブスが外れていくのだろうと思う。

 そして、そのとき気づく。
 「鳥を閉じ込めていた鳥かごは、本当はなかった」と禅などで言われるように――、養成ギブスも、そもそも最初から付けていなかったのだと…。
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